2025/02/06 18:13

自分のしている作業を仕事にしているので、やっぱり世界のさまざまな作家やアーティストなどのことが知りたくなって、世に出ている映像や本やなんかを見たり読んだりする。


岡本太郎さんもその一人だけど、いつも 『なんで太郎さんは縄文が好きだったのか?』 と不思議だったのでちょっと縄文について触れてみようと思った。

そもそも縄文人は、狩りでの獲物を追って日本の大陸に渡来して定住した ”狩猟民族” たちが発端で、その渡来人が定住して独自の文化となっていったらしい。
そこからしてまず、なにかに縛られることがなく、独特の感性を開花して縄文土器のようなぶっ飛んだ形や文様を生みだしていった事にも頷ける。

そして縄文文化の次に来るのは弥生文化。 縄文文化を ”始まりの文化” とすれば、
弥生文化は言ってみれば縄文文化を合理的に、統一的に、使いやすさなんかを追求した文化であろうと思う。
なので弥生式土器が縄文土器と比べるとなんだかすっきりしていて、ぺったりと装飾のない形になったのだろうと伺える。

これは一見、進化のようにも感じられるけれど、
縄文が人の意識を全開解放して創られた創造物だとすれば、弥生はそれとは逆方向に進んでいる。なので、角度を変えれば 退化した ともいえる。

私は小さい時は縄文土器の何がそんなにいいのか??と理解できずにいた。
どちらかというと弥生の方がすっきりしていいじゃないか、くらいに思っていたけど、縄文土器のそんな由来や今日のみなさんの考察を知れば知れほど、縄文の魅力に気づかされている。

土偶も、今の日本人には 精霊や女神、お守りなどと言われていれけれど、海外では宇宙人などとも言われている。結局のところだれも正解はわからない気もする。
縄文文化は、便利さをついつい追求してしまう現代人との価値観の違いが面白い。
だからこそ 『この形にした理由が知りたい』 とか、 『何にも縛られない感性を生かしたそのフォルムへのあこがれ』 そして 『先人たちのそんな心に思いを馳せる』 、、、 というロマンが、今日もたくさんの人を虜にしているように思う。

太郎さんは そんな縄文文化や土器を客観的に見るのではなく、あたかも自分も縄文人だ、というような、そんなスタンスで創造や言動をしていたんじゃないかと思う。
縄文のアシンメトリーさや、非常さは、狩猟民族故の空間センスでもあり、保守的ではなくて攻めの姿勢を表現している気もする。
器でありながら、決して機能的とは言えず、そこには独特の世界観があって、力がみなぎっている。
それはとても手間暇をかけて丁寧に創られている、とも言えて、今日の日本人の細部までこだわるものづくりへの向き合い方に通じているようにも思えて来る。

太郎さんはそういった、人間の心の本当の意味での進化とは何か?問い、日本人が大切にしていくべき部分、向かっていくべき方向を自らの生き方でもって、そしてアートを通して表現してくれたんじじゃないかなぁ、、、などとと思うと、今まで以上に文化や太郎さんが愛おしい。

このご時世では風あたりも強いだろうけれど、生きるってもっと挑戦的でもいいのかもな、なんて思う。


画像は個展で製作したミクストメディアの作品。真鍮と樹脂と布と耐熱ガラスなどを使っています。
人生は劇場のようなもの、だと思いませんか。


縄文については長くなりそうなのでまた次回。